熟思黙想

推しが、燃えた。

あっという間に、燃えた。

言葉どおり''情景が目に浮かぶ''ようで、まるでドラマを見ているかのように時間が過ぎ去った。最寄り駅の改札をぬけてから始まった物語は、8時間の労働を終えてふたたび改札に戻ってきた時には、もう終わっていた。

 

某国民的5人組アイドルグループが好きだった時期はあるけれど、人生が狂うほどに何かを愛したことはない。故にこの物語の世界はどこか別の場所のように感じてしまったが、ひとつだけ共感出来た部分がある。

「画面の中の虚像でも自分を愛してくれる人がいるならそれでいい」(意訳)(曲解)という、主人公の胸の内である。

自分は推しの色で部屋を染めたりグッズを沸きだすように陳列したりできるオタクではない。現に初期必死で集めたグッズ達の多くは、もっと大切にできる人達の手元に渡って行った。しかし、根っこの部分の気持ちは彼女と同じだな、と思った。

 

言うまでもなく彼らのことは大好きだし、尊敬しているし、だからこそ生きる活力になっている。しかし彼らを追うことで、努力している素振りを見せることで、誰かに「自分を認めて欲しい」と思っているのも事実である。結局は自己顕示欲、エゴなのだな、と思う。

 

最近ふぉろわ~のご友人と繋がらせていただく機会が増えた。烏滸がましいが、その大半との会話はこう始まる。

「TLでお見掛けして、気になってました」「よく名前をお聞きしていたので、繋がれて嬉しいです」

恐れ多いがすぎてしまう。大手垢ならまだしもFFが30人とかいう弱小アカウントである。1学年で言ったら1クラスの中の何人かとだけわきゃわきゃしているタイプ。

荒波は立てたくないし自分のことを認めてくれる人とだけ仲良くしていたい。居心地がいいからこのままぬくぬく暮らしていたい。そんなことだから自発的なたぐもあまりしなくなって、ついったーは繋がりを持つ場所というよりもむしろ仲間たちと感想を共有する場所と化した。

最近のツイをみても中身のないものばかりだから、こんな人をよく気にかけてくれたなと思うし、繋がってくれた方へは感謝どころの騒ぎではない。優しい世界だ。

かなり前から繋がっている友人たちは、私生活を交えたような呟きの場に招待している。そこではあらゆることに対するちぐはぐな心の内をぶつけているのだが、不思議なことにそれらを目にしてもなお、彼女たちはわたしを肯定してくれる。「頑張り屋さん」だとか「自分をしっかり持ってる」だとか。

歳下でも歳上でも関係なく褒めちぎってくれる。そんなことはないのに。現実の私の姿なんて、だれも知らないのに。

自分を好いてくれる人に嘘をついていることに、勝手に心を痛めて、ここにいるべきではないと悩んだ夜は数えきれない。公式が追えないのに、自分に酔いしれている女のパフォーマンスなんて誰が見たいのか。そうやって何度もやめようとした。でもやめられなかった。時折バチバチかます彼らは最高にかっこいいし、現実世界ではずっと産まれたての子鹿だから褒めちぎってくれる人が居る場所があたたかくてたまらない。

誰が悪いわけでもない、私の自己肯定感が低いのが1番の原因である。それだけ公式が、ふぉろわ〜の存在までもが、自分の中で大きくなっているなら、より一層の努力と成長をして彼らに恩返しをしなければならないなぁと、お風呂に入りながら、そんなことを考えた。